天才アニメーターたち
天才アニメーター序章『ディズニーアニメーター:9人の古株
ディズニー天才アニメーターというと様々な方々、数え切れない天才アニメーターがいらっしゃいます。
このカテゴリーで一番初めにご紹介するのは、ディズニーアニメーションの黄金時代を作り上げた9人の古株、通称『ナイン・オールド・メン』あだ名される方々です。
ウォルト・ディズニー氏の世界的に有名なミッキー・マウスが誕生する前、1926年、ハイペリオン通りに造られたディズニースタジオ・ハイペリオンは、今後、活躍するアニメーターやそのアニメーターによって生み出される魅力的なキャラクターを想像力を豊かにする源となったスタジオです。
しかし、はじめには、スタッフ20人程度しか収容できなかったため、ディズニースタジオの隣にあったパイプオルガン製作工場を買い取り、増設、制作スタッフの増員や専門スペースを設けなければならないという予想外の展開がおき、一番初めのうちは、増築に増築を重ねていたもののウォルト・ディズニー氏は、増築をやめ、大々的に、本格的なアニメーション制作専用として建設されたスタジオを、ウォルト・ディズニー氏の指導で長時間かけて設計、建設されたのが 『完璧』な建物ハイペリオン通りのディズニースタジオです。
ディズニーアニメーションは、アメリカのアニメーション自体が巨大なメディアとして成長して行くにつれディズニースタジオも徐々に拡大をはじめ1939年になる前にディズニースタジオのスタッフは、1000人を超えてしまいます。その間にいろいろな大ヒット作、『ミッキーマウス』シリーズをはじめ、『蒸気船ウィリー』、『3匹の子ブタ』などのを作り上げました。
そして、1939年に大学のキャンパスを思わせる広大な敷地に魅力的な景観を作り出すように設計されたバーバンクにスタジオを移します。これで完璧と思いきや、スタッフの数がとてつもなく増えたため、ウォルト・ディズニー氏自身が時間の暇を見ては、各制作スタッフの仕事の進み具合などを、見回ることがでなくなり、各アニメーション制作の効率が悪くなってしまいます。その頃にはウォルト・ディズニー氏は、アニメーション制作の過程のアイデアや自分でイラストを描くことがなくなり、アニメーションスタジオの社長として、一経営者として多忙でした。
その結果、作業効率が悪くなった分、スタジオ内のスタッフたちのいざこざ、特に上司(ディレクター)が、部下(マネージャー)に『まだ、終わらないのか?(怒)』と激怒されるとそのマネージャーは、アニメーション制作の一番の要(かなめ)である下っ端のアニメーターたちに八つ当たりするなど、してアニメーターは、疎外され、アニメーターたちは、徐々に孤立化してしまいます。
試行錯誤の上、1940年にアニメーション部の管理を補佐するアニメーション(ボード)幹部会が創設され、幹部会(ボード)のメンバーは、採用、解雇、仕事の割り振り方、異動、昇進、訓練などについて会議、スタッフに助言を行いました。
するとそれが徐々に当時、一番問題になっていたアニメーターはどうあるべきか?アニメーターをもっと効率よく使うにはどのようにするべきか?と言うところまで決定するようになりました。
そして1950年に、9人のスーパーバイジング・アニメーターが固定化され、主力アニメーターだった彼らは、幹部会のメンバーとしての職務を果たすだけでなく、どんな映画(アニメーション)を作るか、どんな種類の娯楽を生み出すかというところまでスタッフ達に影響を与えました。つまり、今までウォルト・ディズニー氏がやってきたことを受け継ぎ更に強化された状態を意味します。ナイン・オールド・メンの誕生です。
当時、この9人は、全員まだ30代という若さで、ディズニースタジオの重役ポストになりました。ウォルト・ディズニー氏は、この9人の重責を担う賢人点で、最高裁判所の9人の判事と同じだとして、判事達の呼び名を取って『ナイン・オールド・メン』とあだ名を付けた事がその名の由来です。
